白峯神宮について
御祭神と
御聖徳崇敬の意義
第75代 崇徳天皇
平安時代末の元永2年(1119)に鳥羽天皇の皇子として御降誕になりました。保安4年(1123)に第75代の天皇に御即位あそばされましたが、保元の乱(1156)に遭われて讃岐国へ配流遷奉され、同国に在られること8年の長寛2年(1164)8月に、45歳の聖寿を以って崩御なさいまして、その地の白峰山陵に奉葬されました。
天皇は御幼少時より和歌・管絃の道に秀でられ、王朝文化の進展に大きく御貢献、数多の名歌をお詠みになり、殊に小倉百人一首の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」は有名であります。
しかし、皇子重仁親王を皇位に推す叡慮も実現せず、かえって保元の乱の災いによって僻陬の地に御配流の躬となられ、都への還幸を望まれつつ御非運の生涯であられました。「保元物語」や能の「松山天狗」などによれば、御無念の様子を偲んであまりあるものがあります。
また「太平記」「雨月物語」、などにも天皇をお偲びすることができますほか、「詞花和歌集」の勅撰、や西行法師とのかかわりなど、そのご事績は多彩であります。このように時代の流れの大きな分岐点を歩まれた事になり、その結果が、武士の世を開くきっかけになったのです。
第47代 淳仁天皇
『日本書紀』編纂の舎人親王の王子として、天平5年(733)御降誕になり、孝謙天皇(女帝)の皇太子として、続いて第47代の天皇に御即位あそばされました。
藤原仲麻呂(恵美押勝)をして官制改革、租税軽減、通貨鋳造、窮民救済等々の仁政を広く布かせられました。しかし、弓削道鏡の悪政を糺されようとされて、藤原仲麻呂の乱を契機に御廃位となり淡路島に御配流されて、翌天平神護1年(765)同島にて崩御なさいました。
和気清麻呂公は、道鏡の専横を討つべく宇佐八幡の神託を得ての帰路、ひそかに御陵を参拝して事の由を奉告したと伝承されています。
崇敬の意義
当神宮は、かような歴史上御非運に会われた御二方の天皇の御神霊をお祀り申し上げております。しかしながら、両天皇の御治績をうかがう時、わが国の発展に示された御聖徳はまことに偉大でありながら、かつ御無念な御生涯であられたことを悲しむものです。かかる場合は、後世の人々がその聖徳を偲び、御霊を慰め奉ることが大切です。
御創建に当っての明治天皇の深い御志を尊ぶことにより、両天皇の御神霊は更にさらに私たちを御守護下さいます。『神は人の崇により威を増し、人は神の御加護により運を添ふ』と古来より伝承されています。私どもは日々の生活に於いて祈り、感謝する気持を保ち続けたいものです。