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白峯神宮 由緒

蹴鞠

およそ1400年前、日本国史上で有名な「大化の改新」(645年)は、中大兄皇子が藤原鎌足と蹴鞠を機縁に非常に親密な仲になり、以後、その大業成就へとつながったことは広く知られているところであります。このように大和朝廷時代に、中国から伝えられたといわれる球戯の一種ですが、日本に入ったときから、相手に受け取りやすく打ち返しやすい配球をする、リフティングとアシストの上手さを競う勝敗のない至って平和な球技です。

我が国では、平安時代中頃以降、宮中や公家において盛んに鞠会が催され古文書にもその記述がしばしば見られます。鎌倉時代には、武士階級でも盛んに蹴鞠が行われるようになり、室町時代を経て江戸時代に入ると、徐々に一般庶民にまで普及し、謡曲・狂言・浮世草子など様々なところでも題材になりました。

黄桜と蹴鞠(四月十四日)

黄桜と蹴鞠(四月十四日)

例えば、清少納言は『枕草子(まくらのそうし)』の中で「あそびわざは、小弓。碁。様あしけれど、鞠もをかし」(遊戯はというものはみっともないものだが、蹴鞠はおもしろい。215段)と書いています。蹴鞠が広まるにつれ、当時の選手(鞠足)の中には信じられないほどの技を持つ「名足」が現れはじめます。平安末期の蹴鞠の名手・大納言藤原成通は、清水寺に詣でたとき、清水の舞台の欄干の上で鞠を蹴りながら何度も往復したといわれています。

また、同時代の刑部卿藤原頼輔も、時の関白九条兼実に「無双達者」と賞賛された達人で、その孫に当たる飛鳥井雅経と難波宗長は、それぞれ飛鳥井流・難波流なる「流派」を打ち立てて、ここに「蹴鞠道」が確立されたわけです。

七夕の蹴鞠(七月七日)午後二時半頃

七夕の蹴鞠(七月七日)午後二時半頃

飛鳥井雅経と難波宗長は鎌倉に下向し、蹴鞠道の普及に努めた結果、将軍・執権を始め、多くの鎌倉武士たちが蹴鞠に熱中し、争うように両派に弟子入りしました。ちなみに飛鳥井流には、鎌倉幕府二代将軍・源頼家らが、難波流には、五代将軍・藤原頼嗣、五代執権・北条時頼らが入門しました。室町~江戸時代、難波流は衰退したが、飛鳥井流は綿々と受け継がれ、幕府や朝廷の要人・貴人たちに蹴鞠を教え続けたのです。

しかし、明治維新以後、西洋化の波のなか、蹴鞠も一旦途絶えましたが、明治36年に明治天皇のご下賜金により、有志による保存会が結成され、平成15年(2003)は100年目を迎え、その記念に「蹴鞠碑」が建立されました。

当白峯神宮に集います「蹴鞠保存会」は毎年4月14日と7月7日に奉納が行われ、毎月二回日曜日に稽古を行っています。

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